盾の勇者批評 モラルと罪
- 2019/01/31
- 14:35
この世のありとあらゆる作品の中で、最も不快感を感じる作品とはいかなるものか。
ヒール役が野放図に振る舞うアニメであろうか。
いや違う。そのような不快感は意図的に与えられるものであって、生理的嫌悪とは異なる一種の技法にすぎない。
僕がアニメを見ていて最も生理的嫌悪を抱いた瞬間は、「魔法科高校の劣等生」を視聴していた時であった。
主人公を始めとする高校生のメインキャラ達が“正義の名”のもとに、有象無象の敵役をかたっぱしから殺傷していたあのシーン。
モブのような敵キャラまで、必要以上に殺して周っていたあのシーンを、爽快と受け取る人がいれば僕はこの上なく軽蔑する。
高校生の男女が正義感に従い、大量殺戮を行った後、「さすがですわお兄様」と互いを褒め称えていた光景を見れば寒気がするだろう。
何しろ殺人者と殺人者が、一仕事(殺人)を終えた後、互いの功績を褒め合ってホルホルしているのだから。
それを高校生キャラにさせるのだから、なんて罪深いのかと思ってしまう。
このような際、何に対して不快感を抱いているかと言えば、作品のシナリオ自体ではなく、
あまりにモラルからかけ離れた著者と、それを良しとする盲目な崇拝者達に対してなのである。
つまり、著者に対してモラルの欠如を感じてしまった時、自己と作品との関係性が最悪たるもにになってしまっているのだ。
さて、僕は今期放送中のなろう作品『盾の勇者』に対して、同様の理屈、「倫理観が欠如している」という内容で批判を書き始めるつもりだった。4話を見るまでは。
具体的にどのような点に対して、批判しようと思っていたかというと、
一つ目にヒールキャラをいかにもな、金髪イケメンと赤髪ビッチに設定していたこと。

金髪イケメンは異世界転生してきたわけだから、本来は日常的に良く見られる、いわゆる“ウェイな人間”を想定しているはずである。
そいつを果てしなく卑劣な存在として描くことに対し、どれだけコンプレックスの対象と認識しているのだと、著者に憐れみを感じた。
見下されるのには本人にも理由がある、それを棚に上げて、相手を一方的に貶める描き方をするのが好きじゃない。
今後はそのコンプレックスを解消するために、見下した人間を逆に見返すという展開にするんだろうな。
これではまるで苛めらっれ子の現実逃避ではないか!と感じていた。

更に、周囲から抑圧された主人公が奴隷に手を出したことにも、許しがたい嫌悪感を感じる。
自分より格下という要素としての、“奴隷”+“幼女”。しかも女という要素を付加することで、そこに性的対象としての意味合いを含ませている。気持ち悪い。

苛められっ子は往々にして、自分より格下の存在を探し求めるものである。
小学校で同級生から苛められては、下級生の所へやってくる子がいたなぁ、とそんなことを思い出す。
性的犯罪者の動機も、周囲から抑圧され、“自分の言う事を聞く”少女を誘拐するといったものもがよく見られるだろう。
それと同等の心理メカニズムとして僕の目に写ってしまったのだ。
また、主人公が最初に民衆から支持を得たのが、ある小さな町の社会的立場の弱い人たちからであったという事も
この“苛められっ子”論理をいっそう助長させていた。
しかし、最新の4話放送によって、これらの生理的不快感はある程度解消されることになる。
まずは赤髪ビッチが王族であったという設定。
これによって、コンプレックスの対象が「リア充」から「貴族」にすり替わった。
貴族を悪の権化のように描くのは、まぁ仕方のないことでしょう、時代も違うし僕の知ったこっちゃない。
金髪イケメンも下半身に脳があって、少し頭が弱く、赤髪に利用されている程度の些細な存在になり変わったように感じる。
この二人が現実世界で見られる“ウェイ男女”の象徴であることは間違いないが、露骨さが軽減されたことで、不快感も一部解消された気がする。

そして、奴隷を使役することに追及があったことも大きい。
結局、感情的な理由や主人公の“優しさ”に漕ぎ着けて、それを正当化したにすぎないのだが、
生々しく主人公を批判することができるのであれば、少なくとも著者に真っ当な倫理観は備わっているのだと分かり、
一気に僕の心は落ち着いた。少しこの作品及び著者に対して、信頼することができるようになったとも言える。
この信頼関係こそが著者と受け手の間に育まれる、相互関係の前提条件なのである。
『盾の勇者』は2クール放送だということが判明したので、とりあえずこの作品を落ち着いて楽しめる心の準備ができたので良かった。
しかし、まだこの作品が有する最大の罪深い設定に言及していない。
それはラフタリアちゃんを幼女から成長させたことである。
手塩をかけて幼い女の子を成長させて云々というのは、ロリコン的煩悩を煮詰めて濃縮したような罪深さである。
あまりの罪深さに紫式部も草葉の陰で笑っているだろう。
僕はこの“光源氏的ロリコン精神”を、紫式部の更に後背に隠れ、小さく手を叩きながら細やかに称賛することにする。
これはロマンである。
ここにモラルの不一致など存在しない。なぜなら僕も一人のロリコンだからである。
